うつ療養ブログ

現在、休職して抑うつを療養中です。療養中に気を付けたことや、考え感じたこと、日々の記録を更新していきます。

【うつ療養ブログ】「ストレスと適応障害(つらい時期を乗り越える技術、岡田尊司)」を読んだ感想

「ストレスと適応障害(つらい時期を乗り越える技術、岡田尊司)」を読んだ。

図書館の人気ランキングで比較的上位に入っていたため手に取ってみました。

 

感想は以下、

・世の中でうつと診断されているものの大半が、「適応障害」だと説明されている。自分がつぶれたのも仕事のストレスで原因が明確なため、自分の適応障害にあてはまるのではないかと感じた。

適応障害の場合、投薬以外の方法が有効になる(環境調整や、自分の生き方・考え方を変えるなど)

・この本をきっかけに認知療法について少し調べてみようと思った。

 

心に残った言葉は以下、

実際、「うつ」として医療機関を受診するケースでは、かなりの割合が適応障害である。クリニックのレベルだと、受診するケースの9割が、適応障害で占められているというところもある。脳のレベルで異常が起きるまでには至っていないわけで、ある意味、合わない環境に対して、ごく自然な反応が起きているともいえる。それを、「うつ病と診断し、抗うつ薬を投与されたり、ときには、「双極性障害躁うつ病)」と診断され、気分安定薬抗精神病薬を投与されるというケースも珍しくない。それで、どうなるかといえば、ますます体がだるくなり、意欲も気分も沈み、まったく仕事や学校どころではなくなってしまう。本当の病人になってしまうのだ。

 

ストレスにうまく対応するために知っておくべきこと(基本的な原理)

最初の原理は、ストレスは自分でコントロールできると、小さくなるということだ。ただし、コントロールするのに高度なスキルが必要な場合には、ストレスが逆に大きくなる。

第二の原理は、ストレスは抑えようとすればするほど、増大するということである。

抑え込まれた欲求はストレスになるといえる。

第三の原理は、ストレスが限界を超えてしまうと、ストレスに慣れるどころか、ストレスに対して過敏になってしまうということだ。

四番目の原理は、ストレスを乗り越える力は、その人個人の能力だけでなく、その人を支える力によっても左右されるということだ。実際、問題を解決する能力における重要な要素は、他の人に相談できるかどうかである。

 

授業中にあてられても答えられる自信があるなら、不安にならない。あてられて答える自信がない場合に不安になる。その場合は、予習や下調べが対策になる。不安自体を減らすような治療をするよりも、備えをすることで、不安を減らすことができる。

それと同じように、不安や緊張を問題視するのではなく、ストレスをコントロールする方法を考えるということが、一つ重要な観点である。

もっとも重要なカギを握る究極の原理は、「安全基地」をもつということである。安全基地とは、いざというときにいつでも頼ることのできる存在であり、幼い時代の母親のような存在である。

 

問題解決が苦手な人ほど、自分だけでなんとかしようとする。逆にいうと、自分の弱みをみせて相談するのが苦手な人ほど、適応障害を起こしやすい。

したがって、まず実践したいのは、問題や支障が起きたら、適切な相手に相談するということだ。適応障害を起こしている場合には、このことが特に重要になる。問題の解決を、第三者に頼らざるをえないのが普通だからだ。自分でどうにかなっているのなら、そこまで追い詰められてはいない。いまこそ、誰かに頼るときなのだ。他の人に問題解決を助けてもらうことを恥ずかしがったり引け目に思う必要はない。それよりも、自分だけで抱え込んだまま潰れてしまうほうが、ずっと恥ずかしい。

 

安全基地をもっているかどうかが、適応力を左右するのはいうまでもない。適応力というと、その人自身の力と思われがちだが、実際には一人一人の力には、そんなに差はない。適応力の差は、どれだけの人を味方につけられるか、人に助けてもらえるかによるのである。人に相談したり、助けを求める力も、その人の力のうちなのである。

 

うつ病の患者を治療するなかで、彼らが実際以上に物事を悲観的に考えていることに気づいた。自分のことを悲観的に考えているだけでなく、世界や未来に対する考えも、悲観的に歪められていた。ベックは、この過度に悲観的な考え方が、そもそも彼らを苦しめている原因ではないのかと思うようになった。そうした悲観的な考えが本当に根拠のある現実的なものなのか、ベックは患者と一つ一つ検討してみることにした。

そうすると、患者は自分の考えが、事実に反していることを認めざるを得なくなり、過度に悪いほうに思い込んでいたことを自覚するようになった。すると、うつ病の症状にも改善がみられたのである。

 

最初は失敗したことと無関係なところから始めて、本人が自分にもできることがあると思えるようにすることが大事である。

 

1日の最初に優先順位の高いものからやるべきことのリストをつくり、一つずつこなしていく。その日にできないことが出てきても仕方がないと諦め、次の日に先送りしていく。やるべきことをすべてすることが一番よいことなのではなく、少ない労力で効果的に働き、心のゆとりを失わないことが一番大切だということを肝に銘じ、がむしゃらにやりすぎず、自分が期限内に最終的にやれる範囲の見当をつけ、それを念頭に動いていく。

 

いくらしなければならないことであっても、無理なことは無理であると割り切り、無理な要求をされた場合にも、責任上やるしかないと思わないようにする。自分がやるしかないと思ってしまうのがこのタイプの思考の特徴であるが、実際には周囲には暇を持て余した人がたくさんいたりするのである。その人ばかりが精根をすり減らす必要などまったくない。「無理だ」と一言いえばいいのである。

 

ネガティブな認知の傾向が認められる人は、この機会に修正していこう。認知の偏りは、自覚と努力によって変えていけるのである。

 

ネガティブな認知の傾向

①ネガティブ認知、否定的認知

②完璧主義、二分法的認知

固執性、否定的な体験にとらわれやすい、引きずる、こだわる傾向、反芻思考

④過敏症、環境の変化に対する過敏症や不安の強さ

⑤共感性、向社会性が乏しい

    →これはあてはまらず

⑥情動制御が弱い傾向(自己抑制が強すぎるのもそれはそれで問題)

    →これはあてはまらず

⑦安全基地となる存在の確保できているか?しっかり守られていると感じているか?

 

安全基地がしっかり確保されているかどうかは、過敏な遺伝的体質や不安を抱きやすい傾向と同じくらい、その人の認知を左右する。

 

安全基地がしっかりと確保された人では物事の受け止め方がポジティブで恒常性をもちやすが、安全基地が確保されていない人ではネガティブで不安定になりやすい。

 

容量オーバー型の適応障害やうつを予防するうえで、一つ大事なことは、情報入力を少しでも減らす努力をすることである。脳が容量オーバーを起こしているうえに、遅くまでテレビやネットをしてしまっては、ますます情報負荷が過剰になって、容量オーバーを悪化させてしまう。ネット依存の人にうつが起きやすいのも、その要因の一つとして容量オーバーに拍車がかかるためと考えられる。

 

疲労気味なときには、音楽、映像などの情報入力を減らして、脳を休めるように努める。五分くらいの合間の時間、目を閉じて神経を休めるだけでもら活動し続けるのに比べると容量オーバーを防ぐのにとても有効である。休憩をまめにとって、ぶっ続けで仕事をしないようにする。そうしたことに気をつけるだけでも、かなり違うものだ。

 

容量オーバーが起きやすいシチュエーションの一つは、環境や担当が変わったときである。新たな環境に入ったり移ったりしたときというのは、対人関係の面でも、仕事や課題の面でも、勝手がわからず、たいしたことをしていなくても気遣いが増え、慣れた環境で過ごす場合に比べて、何倍も疲労するということも起こり得る。ましてや責任ある立場になったり、不慣れなことを担当したりする場合には、ペースを掴むまで容量オーバーが起きやすい。

 

容量オーバー型が起きやすいもう一つのシチュエーションは、逆に環境や仕事内容にも慣れて、仕事をそれなりにこなせるようになったときである。中堅として、仕事内容が質・量ともに急激に増え、周囲からも頼りにされるということが起きる。

 

仕事というのは、仕事ができる人に集中しやすいという性質をもつ。

 

2種類の適応障害

①容量オーバー型の適応障害

②主体性を奪われて適応障害になる人

 

適応障害やうつが起きる状況には、もう一つのタイプがある。それは、その人がその人らしく生きることを妨害された場合だ。フランクルのいう生きる意味が奪われた結果、表面的にはうまくやれていても、行き詰まってしまう。

 

人は意味のあるストレスならば、たとえそれが少々大きくても耐えられるが、逆にどんな小さなストレスでも、それが無意味なものならば、ひどく苦痛に感じる。

 

柔軟性を保つために大切なことは、対話と弁証法である。

 

スルー(受動的コーピング)するかアクション(能動的コーピング)を起こすか、という視点をもって自体を捉えると、それだけで対処がしやすくなる。

 

本当に重要な点に、迅速で強力なアクションを起こすように心がける。

 

人は少々仕事がきつくても、給料が安くても、それだけで心が折れることはあまりない。しかし、自分の頑張りや大切にしている信念を否定されると、がっくりきてしまう。それはプライドが傷つくからだ。人はプライドが傷つけられることに、とても弱いのだ。プライドが傷つくほど、きついことはない。他のことは我慢できても、自分が大切にしていることを否定されると、心が折れそうになる。ときには追い詰められ死を選ぶことさえある。

 

大切にしていることほど、それが踏みにじられるような状況が起きると、心に堪える。

 

他人の評価ではなく、自分が最善と信じる行動をとることにプライドを持つようにする。

 

相手の評価や物事の結果はさまざまな要素によって左右されるが、自分が最善と信じる行動をとることは自分の信念や努力によるものだから、何ものにも左右されない。相手が否定的な評価を下そうと、結果が思わしくなくても、自分の信念や努力に対してプライドをもっていれば、自分としてはやるだけのことをやったと胸を張れるのだ。

それを周囲がどう受け止めるか、最終的な結果がどうなるかは、自分の力や努力だけではどうにもならないりさまざまな偶発的な要素も関わってくる。それは誰にもどうすることもできない。上司や顧客から理不尽な避難を浴びせられたり、努力したのに結果が出なかったりしても、自分が最善と信じることを行ったと自分にいい聞かせ、胸を張ってほしい。

 

自分の努力にプライドを持つ!

 

自分が最善と信じる行動をとるためには、日頃から自分で判断し、行動する習慣をつける必要がある。つまり、周囲の評価や結果ばかりに左右されない生き方をすることになる。それは、心が折れることから自分を守るだけでなくら自分らしい本来の生き方にもつながるのだ。

 

百点ではなく五十点で満足する。

 

中傷は、存在感の裏返しだと思っておけばよい。

 

期待値を下げるということを、もっと積極的な言い方でいうと、よいところ探しをするということだ。悪いところではなく、よいところをみる。どんな悪いことにも、何かよい点があるはずだという視点で物事をみる習慣をつける。これは幸福になる秘訣だと思う。

 

この対処法は、完璧主義な傾向をもつ人に特に有効である。物事がうまくいかなくなったときに追い詰められないためにも、百点以外は零点と同じといった完璧主義ではなく、二十点でも零点よりずっといいという発想で、粘り強く生きたいものである。

 

×反芻思考

いわれた言葉や心理的衝撃を頭のなかで引きずり続け、その言葉や場面が堂々巡りを続けている。

 

こうした反芻思考に陥りやすい人は、うつにもなりやすい。日頃から、反芻思考を防ぐことも大事だし、反芻思考に陥ったとき、それを切り替える方法を知っておくことも大事だ。

切り替えの方法として、簡単だが有効なのは、体を動かしたり、場所を移動することだ。

 

反芻思考防止の問いかけ

「このことを考えて、何か役に立つだろうか。何かプラスになるだろうか。結果を変えることができるだろうか」

よい結果を出すのに役に立つことなら、大いに考えたらいい。しかし、そうでないことなら「考えても同じことは、考えるのをやめよう」と言い聞かせる。

 

合わないことを我慢してやり続けようとすると、心や体が反乱を起こしてしまうのである。心と体の反乱の初期の段階が、適応障害だといえる。病気という形でSOSを出しているのだ。それを無視して、やり続けようとすると症状はどんどん進み、本当の病気になってしまう。

そのサインを真摯に受け止め、それに逆らわないことが多くの場合、解決の近道である。つまり、我を通したほうがいいのだ。我を抑えて我慢しようとすると、ますます泥沼から抜け出せなくなってしまう。

まったく身動きできない状態が長く続いているのに、周囲の期待や世間体のためにその環境にしがみ続けるということは、人生のロスである。潔く諦めて、次のチャレンジをするということも大事だ。

どこで見切りをつけるか迷うことも多い。その場合、期間を設定して考えるのも一つだろう。あと半年だけ頑張ってみようとか、この年度いっぱいは続けてみようとか。それでも事態が改善せず、ますます合わないという気持ちが募るようなら、ここは諦めて、他でチャレンジしよう。そんなふうに思うことで、目の前のつらさが、いつまでも続くわけではなきと割り切ることができ、いまできることをとりあえずやろうという気持ちに切り替わりやすい。

 

ヘルマンヘッセの例

40代のときにとにかく50歳まで生きてみて、やはり生きていることが辛く、死にたいと思うのなら自殺することを許してもらおう。この苦しみが際限なく続くわけではないと思うことで、ヘッセの気持ちは楽になり、不安定な気持ちを落ち着かせることができた。結局、ヘッセは50歳を無事迎えることができ、そのときには自殺願望も消えていたのである。

 

新型うつ病の多くは適応障害なのである。

 

つまり、悩みの正体とは、未解決のままになった問題でもあるのだ。

 

悩みの二つの意味

①葛藤(困難や代償)

②問題が解決できない

 

自分のなかの両価的葛藤を正確に知ることは、より強い決断や行動を生み出すことにつながるのである。

まずは、ご自分の内的葛藤に少し向かい合っていただきたい。

 

自分の葛藤のレベル、階層、本質を特定する(会社に行くか、行かないかは表層の葛藤でしかない)

 

現状の惰性を脱し、変わっていこうとするには、大きなエネルギーが必要だ。それを先導するのが、明確な意思を語る言葉なのでおる。進むべき道がはっきりしないのに、エネルギーが生まれるはずもない。

 

実際、現状を変えていく人、困難を乗り越えていく人、何かを成し遂げる人というのは、自分の意思を語る言葉を持っている。自分が何をしようとしているのか語れない人が、大を成したという例は聞いたことがない。困難を乗り越え変化を遂げていくとき、必ず起きることは言葉が変わるということだ。

 

もし仕事に行けたとしたら、どんなことをしたいですか?

 

まず自分のなかの葛藤を明確にしてみる。それをできるだけ明確な言葉で書いてみる。自分がしたいことと恐れていることの間で気持ちがワナにはまっていることがはっきりするだろう。そのうえで自分がしたい気持ち、恐れる気持ちをそれぞれ10段階の数字にしてみる。さらに、それをしたときのメリットとデメリット、恐れてしなかったときのメリットとデメリットを書き出して比較してみる。

そして、もし自分が恐れていることが乗り越えられたとしたら、自分はどうするかを書いてみる。

自分が人生で大事にすることや、それだけは望まないということを書いてみる。

そうした操作をするなかで、自分がどうしたいのかが次第に明確になってくるはずだ。

 

人生の問題に人が迷うのは、解決の仕方がわからないというよりも、どういう解決にたどり着こうとしているのかが、みえていないためである。ゴールがはっきりしていないのに、試行錯誤を繰り返したところで、よけい迷うだけだ。

つまり、問題を解決するもっとも近い道は、ゴールを明確にするということである、ということになる。

 

達成可能なゴールは何か?

解決できたとしたら、どうなりたいですか?

そのとき、どう変わっていますか?

 

解決法を考えて問題を解決するという発想から、正解を決めたら自然に解決法が決まるという発想に変わっていく必要がある。巨大な複雑系を扱う場合には、こっちの発想のほうが有利なのだろう。

 

ラクル・クエスチョン

奇跡が起きて、問題が解決したとしたら、あなたはどう変わるでしょう?

奇跡が起きて、問題が解決したとしたら、あなたの何が変化したからでしょうか?

 

あなたは問題を解決しようと決心して、今夜ぐっすり眠ります。眠っている間に奇跡が起きて、あなたの問題は解決してしまいました。あなたは、朝目覚めましたりあなたはまだ奇跡が起きたことを知りません。奇跡が起きたということを、あなたはどうやって知るでしょうか?

 

例外的に、問題がなくなったり軽減するときに着目する。

「そのとき、うまくできたのはなぜでしょう?」

「そのとき、問題を解決できたのはなぜでしょう?」

こうした質問をしていくと、自分がどういう解決を望んでいるかということが、次第に明確になっていく。それがすぐに達成可能なものでない場合には、「それを達成するために、いますぐ実行することができることはなんでしょうか?」

1段階だけ上の達成可能なゴールはなんでしょうか?」と問うてみる。

もし問題解決しようという決意や計画について話したら、肯定的に反応し、それをより具体化することによって強化していくことが有効である

 

求めるゴールがはっきりすれば、自ずとその方法もみえてくるのである。

 

こうした作業は結局、自分が何を求めているのか、何を望んでいるのか、どこに向かおうとしているのかをはっきりさせていくプロセスでもある。それが可能となるためには、自分自身と向き合うことが求められる。曖昧なままにして誤魔化そうとするのではなく、問題に正面から向き合い、自分の葛藤のや求めている答え。明らかにすることによって、初めて葛藤や試練を乗り越えていけるのである。

 

①どうなりたいのか?何が欲しいのか?

②いまのあなたに達成可能なゴールは?

③その具体的な方法は?

 

これまでの医療は、病気や障害を見つけ出し、診断し、治療するという考え方に基づいた。しかし、適応障害において、その捉え方は通用しない。適応障害ら、その人の特性と環境の相互作用がうまくいかないことによるものであり、それを病気として治療しようしたところで、幻と闘うことになってしまう。

 

必要なのは病気を治そうとすることではなく、その人の特性と環境がうまく調和するように働きかけることである。その人のスキルをトレーニングしたり、物事の捉え方を修正したりすることも必要だし、その人が暮らす家庭や学校、職場に、居場所や活かされる場が与えられるように調整することも重要になってくる。

そして、何よりも大事なことは、その人が追い詰められてしまわないように、安全基地となって安心感を支え、その人の持ち味が発揮できるようにバックアップすることではないかと思う。